Woman 62 - willow http://j.mp/tacw62d |
これくらいの風で結い髪が解けるわけはないが、帯揚げを緩め一息ついて、枝垂れた中に分け入ると、髪か柳か、一瞬見紛うほどに、表と裏と翻りながら、七夕飾りよりも物悲しく、目に見えぬ、風が描く線描画。
Woman 62 - willow ( part ) http://j.mp/tacw62d1 |
日本語タイトルは、”柳”。
英語タイトルは、”willow”。
上の画像は部分。
そよぐ柳の葉は、
曲線の繰り返しがリズミカルでとても美しい。
一様なさざ波とは違う複雑さ。
それでいて乱雑にはならない慎ましさ。
仮名文字や漢字の一片一片が、
ばらばらに分解されて宙に舞うCGを見たことがあるが、
柳の方が快く感じるのは、
それらが鞭のようにしなる一本の枝に連なって、
いくたりかの規則性を保っているせいだろう。
もとより花なら桜より梅を好む性質だ。
柳眉や柳腰とはよく言ったもので、
たおやかな着物姿との相性もとてもいいと思った。
(柳の下に幽霊などという暗い陰湿なイメージはもちろん論外。)
ただ、前回書いた「風流線」は本作では表現できたとは言えない。
まだまだ改善の余地はあるように思う。
葉の配置と色、着物の柄など。
柳とそよ風と着物の女性。
この組み合わせは、いずれまた取り組んでみたい。
その際は、もう少し画像ソフトを駆使して。
特に葉の色合いは、
もともと緑色の濃淡が表裏ツートーンの文様を形作って、
とてもきれいだが、
彩色する際は、唯の葉っぱ扱いは惜しい気もする。
緑以外の色も有りかもしれない。
たとえば補色にあたる赤系統の色で。
Pencil on paper.
●画像URL
全体図 - http://j.mp/tacw62d
正方形 - http://j.mp/tacw62d1
(全体図から切り出したものではなく、顔のアップ)
●作業工程ログ
なし。
●次回予告
女63 curious shade : 好奇心 か eclipse:蝕
身を潜めていた陰から浮かび上がって、
光を受けた目がことさらに輝く、
目の下まで陰に浸った正面顔。
陰の部分は、
始めに画面を塗り潰して、
像を掘り起こす手法で。
明るい部分との対比が明瞭になるように。
ここのところ込み入った作品が続いたので、
次回はシンプルに。
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Flickr: elpoeptac Photostream http://bit.ly/lwzMaw
Twitter: Koujirou Tomatsu (elpoeptac_bot) http://bit.ly/j4nMcl
投稿日:2012-09-19 21:00
Music × Picture
The Marriage of Figaro: Sull'aria
Mozart
Mozart
先に訳もわからず曲を聴き、後から具体的な歌詞や「フィガロの結婚」の話自体を知った。
初めの印象では、もっと感傷的な場面だと思っていた。
実際は、伯爵夫人ロジーナが、小間使いのスザンナに、口述で手紙を書かせる場面での詠唱。
ロジーナは、賢明なスザンナも合意の上で、スザンナに成りすまし、彼女に手を出したい不実な夫を呼び出そうとする。
愛情の薄れた夫を試す、深刻な事態に成りかねない状況だが、話自体が、貴族社会に対する揶揄が通低している痴話話なので、舞台上の演出は、他愛のない、いたずらの相談に近い。
それゆえ、曲が過剰に切なすぎて、歌詞との違和感を感じる。
最も盛り上がる部分は、”もう、それで(夫に逢瀬の約束が)わかるでしょう。”と高らかに繰り返しているのだ。
面白がって成りすましを演じる内に、愛情が自分にない虚しさ、切なさが募り始めるという不安定な心情は、曲調からは感じられるものの、この歌詞と演出が、それを薄めてしまっている。
逢瀬の約束以上のものー自分の心情ーを夫にわかってほしいと歌っているのだと解釈することは、やや強引で深読みが過ぎる。
サイレント映画のBGMと映像を主客逆転するようにして、舞台上の演技を遠景に追いやり、音楽に焦点を絞って観る方が余程胸に迫る。
この違和感は、唯単に曲自体が美しすぎる為だ。
作曲家が台本を書いているわけではないので、こうした”ズレ”は当然起こり得るだろう。
以前の投稿で、自分の絵とのミスマッチの謗りを受ける可能性に言及したが、今回は、あくまでも、その戦ぐような切ない曲調が選曲の理由であることを強調しておきたい。
因みに「モンテ・クリスト伯」の亜流映画「ショーシャンクの空に」でも、知ってか知らずか(英語圏でイタリア語)、世にも美しい歌声として登場している。
初めの印象では、もっと感傷的な場面だと思っていた。
実際は、伯爵夫人ロジーナが、小間使いのスザンナに、口述で手紙を書かせる場面での詠唱。
ロジーナは、賢明なスザンナも合意の上で、スザンナに成りすまし、彼女に手を出したい不実な夫を呼び出そうとする。
愛情の薄れた夫を試す、深刻な事態に成りかねない状況だが、話自体が、貴族社会に対する揶揄が通低している痴話話なので、舞台上の演出は、他愛のない、いたずらの相談に近い。
それゆえ、曲が過剰に切なすぎて、歌詞との違和感を感じる。
最も盛り上がる部分は、”もう、それで(夫に逢瀬の約束が)わかるでしょう。”と高らかに繰り返しているのだ。
面白がって成りすましを演じる内に、愛情が自分にない虚しさ、切なさが募り始めるという不安定な心情は、曲調からは感じられるものの、この歌詞と演出が、それを薄めてしまっている。
逢瀬の約束以上のものー自分の心情ーを夫にわかってほしいと歌っているのだと解釈することは、やや強引で深読みが過ぎる。
サイレント映画のBGMと映像を主客逆転するようにして、舞台上の演技を遠景に追いやり、音楽に焦点を絞って観る方が余程胸に迫る。
この違和感は、唯単に曲自体が美しすぎる為だ。
作曲家が台本を書いているわけではないので、こうした”ズレ”は当然起こり得るだろう。
以前の投稿で、自分の絵とのミスマッチの謗りを受ける可能性に言及したが、今回は、あくまでも、その戦ぐような切ない曲調が選曲の理由であることを強調しておきたい。
因みに「モンテ・クリスト伯」の亜流映画「ショーシャンクの空に」でも、知ってか知らずか(英語圏でイタリア語)、世にも美しい歌声として登場している。
Duetto: Che soave zeffiretto... 二重唱「そよ風に」
CONTESSA 伯爵夫人 (detta) (考えて) Che soave zeffiretto... そよ風甘く・・・
SUSANNA スザンナ (ripete le parole della Contessa) (伯爵夫人のことばをくりかえす) Zeffiretto... そよ風・・・
CONTESSA 伯爵夫人 Questa sera spirerà!... 吹く今宵!・・・
SUSANNA スザンナ Questa sera spirerà... 吹く今宵・・・
CONTESSA 伯爵夫人 Sotto i pini del boschetto. 森の松の木の下で。
SUSANNA スザンナ Sotto i pini del boschetto. 森の松の木の下で。
CONTESSA 伯爵夫人 Ei già il resto capirà. もう、それでわかるでしょう。
SUSANNA スザンナ Certo certo il capirà. たしかに、よくわかりますわ。 (piega la lettera) (手紙を折りたたむ)
武石英夫氏訳
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